【連載】ゆっくり、だけど、確実に。 〜福盛進也 音楽半生記〜 (第1回)
2019年に創立50周年を迎えたドイツの名門ECMレーベル。そのECMから昨年デビューを飾った日本人ドラマーの福盛進也。
15歳でドラムを始め、17歳の時に単身で渡米。その後、ブルックヘブン・カレッジ、テキサス大学アーリントン校を経て、バークリー音楽大学を卒業。10年間のアメリカでの活動後、2013年に拠点をミュンヘンに移し欧州各国で研鑽を積み、遂に念願のECMデビューを飾った福盛進也が、これまでの歩みを自ら綴る連載企画。
【序章】―出逢い―
よく晴れた気持ちの良い日だった。小学一年生、六歳の僕はH楽器という名前の楽器屋の前に母親といた。
物心ついた頃には、父の影響で家の中で流れている音楽をよく聴き、幼いながらも三歳上の兄と一緒にディープ・パープルやチャゲ&飛鳥などを口ずさんでいた。父は大学時代に軽音楽部でドラムをやっていたこともあり、その名残で家にはアコースティックギターが置いてあった。そのギターで昭和のフォークソングを弾き語る父、そしてその音楽性が後の自分にどれだけの影響をもたらすかはその時は知る由もなかった。
そんな音楽好きの父と一緒にバイオリンを習い始める、そういう理由で僕たち親子は見学のために家の近所にあるH楽器に来ていたのだ。と言っても、見学後に友達と遊ぶ約束をしていた幼い僕はそそくさと自転車で友達の家へと向かい、見学した内容はおろかバイオリンのことなどあまり頭に入っていなかった。だがこれが、僕が最初に楽器というものを始めるきっかけとなったことは紛れもない事実である。そして、これが全ての始まりであった。
父の弾き語り
父とのバイオリン
【第一章】―グリーンスリーブス―
僕は生まれつき左耳が全く聞こえない。正式に言うと「左耳感音性難聴」という機能障害だそうだが、自分にとってこれが障害だと思ったことは今日の日まで一度たりともない。医者が言うには、「左耳が不自由な分、右耳が通常の倍ほどの聴力がある」ということらしい。ただ自分には「通常」の人の聴力を味わったことがないのであまりピンとは来ない。しかし、この「障害」のお陰かどうかは分からないが、人より優れた音感を授かったということは何にも代え難いものである。
祭り大好きな幼少期
H楽器での見学を終え、バイオリンのレッスンに通う日々が始まった。毎週金曜日、大阪フィルハーモニー交響楽団でバイオリンを務めていたF先生に一から教えてもらった。実はこのF先生、結構いい加減で大雑把な性格だったのだが、飽き性の自分には相性がちょうど良く、かなり自由に自分が面白いようにレッスンを受けさせてもらえた。その反面、真面目にレッスンを受けたい父はF先生のいい加減な指導のせいで上達するのが遅れ、長年苦しんでいたのもまた悲しい事実なのだが。
そのF先生が、レッスンを習い始めてすぐの時に言ってくれた言葉がある。
「左耳が聞こえないなんて、バイオリンを演奏するのに最高に向いているね!」
バイオリンは肩と左顎で挟んで演奏する為、どうしても左耳が楽器に近くなってしまうのだが、左耳の聞こえない僕には自分で演奏する音がうるさくなくて向いている、という意味である。自分の「障害」が実は長所に生まれ変わることもあるのだ、と認識させられた忘れられない言葉だった。
そうしてレッスンを受けているうちにバイオリンに対する興味も増え、初心者ならまず挑戦させてもらえないであろうテクニックも勝手に取り入れ、音楽を演奏する楽しさを覚えていった。何事にも最初が肝心というのはその通りで、この時期は自分の中で非常に重要な時期だったと解釈している。この頃に演奏していたバッハやモーツァルト、そして特にベートーベンといった作曲家のクラシック音楽は、音楽の道に進む過程で自分に多大なる影響を与えた。
バイオリン発表会1
バイオリン発表会2
また同時期に、当時「クライズラー&カンパニー」というグループで活動していたバイオリニスト、葉加瀬太郎の演奏をよく聴くようになっていた。ある日、友達の家から帰宅すると、母が「ちょっとこっちに来て、ここの椅子に座ってジッと聴いてみ?」とステレオの前に座らされた。
そして、その時にステレオから流れたクライズラー&カンパニーの「グリーンスリーブス」が非常に美しく、まだ二桁にも満たない歳の僕が音楽で初めて感動する衝撃的な体験だったことを今でも鮮明に覚えている。
もちろん、そんな経験をしたりしているもんだから、幼い僕はどんどんと音楽に引き込まれていった。学校でも音楽の授業でリコーダーを吹いたりするのも楽しかった。授業で習ったニ声のメロディから成る曲を家に持ち帰り、父と連弾しカセットテープに録音したりもしていた。そしてそのテープを学校に持って行き、音楽の授業で「お手本」として流してもらったりもしていたのだから、相当な音楽好きな子供だったのだろう。他に、幼稚園の生活発表会で小さな木琴を演奏する機会があり、その木琴がとても気に入った僕は母になんとか木琴を買って欲しいと懇願し、近所のデパートに買いに行ったことがある。その時、残念ながらピアノでいう黒鍵の部分が付いた木琴が品切れで数日後の入荷を待たなければいけなかったのだ。しかし頑固な僕は、どうしてもその日のうちに木琴を持ち帰りたいと母にせがみ、一回り小さい白鍵だけの木琴を買ってもらい大喜びしたのであった。打楽器好きはもしかしたらこの時から来ているのかもしれない。
幼稚園で木琴
小学校高学年に上がると、バイオリンと並行してピアノを習い始めた。バイオリンをしていることから楽譜を読むことはできたし、両手を同時に動かすことも苦に感じなかった。どちらかというと、利き手ではない左手の動きのほうが褒められていたぐらいだった。
こんな書き方をすると、自分は文化系で外に出ることはなかったように思われてしまうが、実は運動が何よりも大好きで、音楽なんかよりも体育のほうが断然得意だった。実際、その頃は器械体操部に所属し、ジャッキー・チェンに憧れながら器械体操選手になりたいという夢を持っていた。縄跳びで二重跳びを連続200回以上やったり、足もクラスで一番速かったり、「運動」と言えばまず自分より右に出るものはいないぐらい得意分野だったのだ。
だから、そんな運動神経抜群と思い込んでいた僕は、ピアノやバイオリンのレッスン前にも大いに外で遊び、骨折とはいかないまでも、突き指やら捻挫やらで親を悩ませる非常に活発な子供でいた。その当時の一番の事件と言えば、街のソフトボールのチームで投手を任され、ノックの練習中に外野に行くはずだったボールが誤って自分の眼を目掛けて一直線に飛んできたことだろう。もちろん一瞬の出来事だったので避けることができず、ソフトボールは自分の右目に見事に命中した。そこから少しだけ記憶は無いのだが、気付いたら誰かに抱えられ、その後救急車で病院まで連れて行かれていた。それから一日病院で寝たきりだったのだが、不幸中の幸いというか、ソフトボールが普通の野球のボールに比べてサイズが大きかったことで眼球に直接危害はなく大怪我には至らなかった。ただバツの悪いことに、その事件が起きた次の日は、大事なバイオリンの発表会の日だったのだ。発表会の当日、クラスメイトの女の子がわざわざサプライズで花束を用意してくれていたのだが、残念ながらそれは出演できない僕のお見舞いの花束に変わってしまったのだ。
小指はいつも突き指
右目付近に対してあまり良い思い出がこれ以降も無いのだが、それはまた別のお話。
※記事中の写真は本人提供
(次回更新は3月4日の予定です)
■福盛進也リリース情報
Shinya Fukumori Trio
『フォー・トゥー・アキズ』
NOW ON SALE UCCE-1171
https://youtu.be/eWc5dSMnMcc
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